2014年10月18日 スコットランド独立の住民投票に思う、多数決の危険性
先日、スコットランド独立について住民投票が行われました。独立反対派が勝ったのですけれども、なんと申しましょうか、そもそも国民投票で決めてよいことでありましょうか。
今までスコットランドが英連邦の中にあったからこそ、英連邦によって守られ、生活がどれだけ保障され豊かになってきたことか。それらは一切抜きにして、今日ただいま、北海油田の利権をスコットランドが取るか取らないかだけで独立をするとかいうような、それはあまりにも浅はかではありませんか。
スコットランドが住民投票の結果、もし独立することになっても、自分の近海にあるからといって北海油田がスコットランドのものになるとは思えません。北海油田は、イギリスが資金を投資して作ったところであります。イギリスがすぐに乗り込み取り込んだとしても、英国連邦とスコットランドの間にジャッジメントを下せる存在がありますか。力対力となれば、スコットランドはそれは大変なことになるでしょう。
2000年も前に、アリストテレスが衆愚政治、愚民政治と称して、民主主義による多数決の危険を訴えておりましたね。まさにそれが思い出され、私は、民主主義の終末というか大きな誤りを感じました。日本でも、住民自治条例が全国各地で制定されておりますね。憂慮しておく問題ではないでしょうか。
多数決の何がいけないのでしょうか。知性です。政治も教育でも、芸術でもそうなんですけれども、多数のもとに知性が破壊されていくのです。本当に見えるたった1人の「これがいいですよ」という声は、多数を超える貴重な意見であり、従うべき意見であります。
小学校の教師をしている時の体験をお話しましょう。秋に写生大会が行われた時のことです。
4クラスの生徒、合計160人くらいで岡山城を写生して、その中から金・銀・銅を選ぶことになりました。まず、担任の先生が各クラスの絵の中で10枚を選びます。その10枚を持ち寄って、合計40枚の中から金・銀・銅を選ぶ、という方法でした。
4人の担任が集まって、金・銀・銅の作品を多数決で決めていたところへ、図画の先生がやって来ました。そして、私達の選んだ絵を見渡すと、ぴしゃりと全部はねてしまったのです。そして、私達がこれは賞には当たらないだろうと除けておいた絵を、「この絵が素晴らしい。これが金です」と引っ張り出してきたのです。
色使いがどうかとか構成がどうかとか、形がきちんと捉えられているかと、私達は見るのであります。それを、図画の先生は、「児童画は、大人の描く絵と違います。子ども達の将来の夢や希望が、絵にどう現れるかが大事なのです。それが見えないとだめなんです」と言います。「どうしてですか。その絵を見て、子どもの将来が分かるんですか?」と聞き返したところ、「子どもの子どもらしさがわかります」という答えがありました。
つまり、見える人が言う意見は全ての意見を超えた意見であり、知性なのです。知性があるからこそ、正しく動くのであります。
朝日新聞のことが重なってしまいますが、その知性の役割を朝日新聞は自ら担っているという自負心があったと思うのです。しかし、その知性の裏付けが、「事実」「ファクト」ではなく「虚偽」であったということは、それは知性でも何でもありません。単なるまやかしです。これは、報道の根本が問われる問題なのであります。
今までスコットランドが英連邦の中にあったからこそ、英連邦によって守られ、生活がどれだけ保障され豊かになってきたことか。それらは一切抜きにして、今日ただいま、北海油田の利権をスコットランドが取るか取らないかだけで独立をするとかいうような、それはあまりにも浅はかではありませんか。
スコットランドが住民投票の結果、もし独立することになっても、自分の近海にあるからといって北海油田がスコットランドのものになるとは思えません。北海油田は、イギリスが資金を投資して作ったところであります。イギリスがすぐに乗り込み取り込んだとしても、英国連邦とスコットランドの間にジャッジメントを下せる存在がありますか。力対力となれば、スコットランドはそれは大変なことになるでしょう。
2000年も前に、アリストテレスが衆愚政治、愚民政治と称して、民主主義による多数決の危険を訴えておりましたね。まさにそれが思い出され、私は、民主主義の終末というか大きな誤りを感じました。日本でも、住民自治条例が全国各地で制定されておりますね。憂慮しておく問題ではないでしょうか。
多数決の何がいけないのでしょうか。知性です。政治も教育でも、芸術でもそうなんですけれども、多数のもとに知性が破壊されていくのです。本当に見えるたった1人の「これがいいですよ」という声は、多数を超える貴重な意見であり、従うべき意見であります。
小学校の教師をしている時の体験をお話しましょう。秋に写生大会が行われた時のことです。
4クラスの生徒、合計160人くらいで岡山城を写生して、その中から金・銀・銅を選ぶことになりました。まず、担任の先生が各クラスの絵の中で10枚を選びます。その10枚を持ち寄って、合計40枚の中から金・銀・銅を選ぶ、という方法でした。
4人の担任が集まって、金・銀・銅の作品を多数決で決めていたところへ、図画の先生がやって来ました。そして、私達の選んだ絵を見渡すと、ぴしゃりと全部はねてしまったのです。そして、私達がこれは賞には当たらないだろうと除けておいた絵を、「この絵が素晴らしい。これが金です」と引っ張り出してきたのです。
色使いがどうかとか構成がどうかとか、形がきちんと捉えられているかと、私達は見るのであります。それを、図画の先生は、「児童画は、大人の描く絵と違います。子ども達の将来の夢や希望が、絵にどう現れるかが大事なのです。それが見えないとだめなんです」と言います。「どうしてですか。その絵を見て、子どもの将来が分かるんですか?」と聞き返したところ、「子どもの子どもらしさがわかります」という答えがありました。
つまり、見える人が言う意見は全ての意見を超えた意見であり、知性なのです。知性があるからこそ、正しく動くのであります。
朝日新聞のことが重なってしまいますが、その知性の役割を朝日新聞は自ら担っているという自負心があったと思うのです。しかし、その知性の裏付けが、「事実」「ファクト」ではなく「虚偽」であったということは、それは知性でも何でもありません。単なるまやかしです。これは、報道の根本が問われる問題なのであります。
- |徒然
岡山県の活性化のために一人でも多くの方とふれあい、たくさんのご意見をお聞きしたいと思います。